〼(ます)健の備忘録

置き去りにしてしまいそうな好奇心を残せたら良いな。

読書ログ『スポーツ業界の歩き方』その② スポーツに足りない視座

 随分とご無沙汰になってしまったが、河島徳基『スポーツ業界の歩き方』のレビューの続きを書いていく。

 

 前回は、「スポーツの価値」についての言及にとどまったが、この本の続きとしては、スポーツの価値がいまの日本社会に生かしきれない原因として

・スポーツ業界として「お金を稼ぐ」システムが未発達であること

・その原因として、「教育としてのスポーツ」「実業団スポーツ」が日本のスポーツ界を牛耳っていて、「スポーツの価値」を自発的に換金する努力をせずとも資金を得られていた背景があること

・現状お金を集められないため人材も集まらず業界の先細りが懸念されること

を問題点として言及した上で、スポーツにかかる仕事にどのようなものがあり、どのように資金を生み出しているかを紹介した上で、最後にスポーツ業界を志す者に対しての檄文を掲載している。

 この指摘においては、特に「スポーツ=文部科学省=教育としてのスポーツ」という図式が固定化されていたことを明らかにしたことの意義は大きいのではないか。(スポーツの価値として「コンテンツとしてのスポーツ」の価値を増進するには経済産業省、「健康としてのスポーツ」の価値を増進するには厚生労働省が、それぞれ担当するのが妥当だということも言及していた。)

 

 筆者としても、スポーツのイメージとして「教育活動としてのスポーツ」のイメージが根強くあって、それゆえにアマチュアスポーツの場(特に学生スポーツや、社会人スポーツの場)にお金儲け的、ビジネス的視座を持ち込むことに対しては強烈な違和感を覚えていた。しかし、お金を集められなければ人も集まらず産業が先細りになる、という指摘にははっとさせられた。スポーツ事業でお金を稼げない、そのためにボランティアによるスポーツの「場」のマネジメントが発生する、このボランティアによるマネジメントが割に合わないので人が離れていく、という悪循環が随所で発生していることは、想像に難くないだろう。

 

 そんな訳で、スポーツというコンテンツがより価値あるものになるためには、スポーツに「ビジネスマインド」が取り込まれることに対して持つ違和感を捨てることが第一歩になるのではないか。筆者はこれを受け、とりわけビジネスマインドが持ち込まれにくい領域と産業化に関する本『現代スポーツ評論 大学スポーツの産業化』を購入したのだった。このレビューについては、また後ほど。